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J からの手紙   (私の書いた手紙への返信です)

あなたの手紙への返信は長くなりそうです。一晩では語り尽くせないでしょう。

●「産直運動」って何なのだろう

 話しはいきなりふるくなります。
 小作農が戦後の農地解放によってようやく土地もちの百姓になれたとき、戦前の「産業組合」にかわって、「農業協同組合」と「消費生活協同組合」がうまれました。
 都市住民は生活のための「消費資材」がないのだから、「新しい消費生協」は生活のために各地に「雨後の竹の子」のようにうまれました。それは「消費」のためではなく、「生存」のためでした。
 農村で「雨後の竹の子」のように「新しい農協」がうまれたのかどうかはよく分からないけれど、私の理解では「大分下郷農協」と「茨城玉川農協」はそうした小作農のあたらしい「組合」として産声をあげた農協でした。
 大分下郷農協には 奥 登、茨城玉川農協には 山口 一門という先達がいて、新しい農民運動を興しました。戦前の「小作争議」が戦後の「農民運動」に転化したのです。
 大分下郷農協は、農地解放によっても土地を持てない次男、三男の出稼ぎ先である北九州に木炭を売って大豆を買い、醤油加工を興しました。行き場のない満州からの引き揚げ者を開拓農民として受けいれたのも戦後すぐのことです。信州佐久出身の開拓農民に酪農を奨め、鎌城という台地を開墾しました。そこで生まれたのが「労農牛乳」でした。奥 登はその鎌城山林争議でGHQに逮捕され、一年間投獄されました。ずっとのちのことになりますが、下郷農協が日本で初めて開設した「農協立診療所」に赴任した医師は、かの信州佐久総合病院から派遣されたのです。
 下郷農協は「労農牛乳」の販路を北九州に求めて、深夜大分耶馬渓から北九州に木炭トラックを走らせました。北九州では下郷出身の家庭に一戸一戸個別配達をしたのです。「労農牛乳」の個別配達をするうちに、野菜の配達も始まりました。当初、野菜配達は販売目的ではなく、開拓農家の子ども達に着せる古着を目的とした物々交換でした。
 小作農と満州引き揚げ者を新しい農民として組織した下郷農協は、今度は都市労働者を食糧供給によって組織する道を探しました。北九州のいくつかの消費生協の設立発起人は下郷農協 奥 登です。
 東都生協初代理事長 土屋 登は産直運動とは何かという問いに対して「食糧の自給と民族の独立」と定義しました。私は土屋 登の定義に加えて、産直運動を「戦後の新しい農民運動が、都市労働者を食糧供給によって組織し連帯すること」という定義を付け加えたいと思っています。

●東都生協とはどういう生協だろうか

 東京都世田谷区船橋の「全中職員寮」の一画に一つの石碑が残されています。石碑には「協同組合学校教育運動ここに興る」と記されています。1972年3月に廃校にされた「協同組合短期大学」の記念碑です。
 全中が設立した戦後の新しい大学「協同組合短期大学」には、農業、農協、協同組合をテーマに取り組む美土路達雄、平井正文といった学者がいました。全国の農協の職員にはここの卒業生がいます。
 1970年の前後は「70年安保」の季節です。戦後民主主義運動の挫折を象徴する年ではないでしょうか。70年を前にして、「統一戦線論」によって各地に「大衆的共闘」組織が作られました。「上北沢地域共闘会議」なる組織はそうした統一戦線組織の一つであり、ここには協同組合短期大学の教員が多く参加していました。美土路達雄、平井正文の両先生もその一人です。のちに東都生協初代理事長になる土屋 登もここに参加していました。
 「上北沢地域共闘会議」の活動から地域住民のなかで「天然牛乳を安く飲む会」を組織していた土屋 登と美土路達雄、平井正文は「協同組合短期大学」の廃校に際して、新しい協同組合運動を興そうとしました。そうして「短期大学」の廃校から三ヶ月後、1972年6月に東都生協はうまれたのです。所在地は東京都世田谷区船橋、「協同組合短期大学」跡地のすぐそばです。
 石碑や神社には死者の恨みを怖れた、たたり封じの性格をもったものが多い。全中職員寮に残された石碑は「協同組合短期大学」を廃校にした全中への恨みを封じる重しにも見えます。戦後を象徴する1955年に全中が設立した「協同組合短期大学」は、70年安保ののちに、同じ全中の手によって幕を閉じられたのです。
 「協同組合短期大学」の生まれ変わりである東都生協には、美土路達雄先生や平井正文先生の薫陶をうけた「新しい農協」が支援の手をさしのべました。大分下郷農協は70万円、茨城玉川農協は208万円を融資してくれました。東都生協の初代プレハブ本部はこの融資で建てられたのです。「産直運動とは戦後の新しい農民運動が、都市労働者を食糧供給によって組織し連帯すること」と定義する所以です。

●偽装とは何だろう

 東都生協15年誌には、ほんらいの母体である「上北沢地域共闘会議」なる文言が削除されました。まるで戦前の書物の伏せ字のようです。「天然牛乳を安く飲む会」を母体とするという表現は誤りではないが、正しくはありません。
 自らの歴史を偽った東都生協は、この頃から架空の組合員を作り出すという偽装をはじめました。「営業」による「成果」を誇示して地位を確保しようとすることは、どの組織の「営業マン」にもありがちなことです。折しも日本生協連は各県一単協を標榜して、生協合併をすすめようとしていました。単協が生き残るために組合員加入という規模拡大を至上命題として、東京都内では各生協職員がみにくい争いをはじめ、単協内部でも営業部門の職員が重用されるようになります。
 架空の組合員拡大成果を誇示して、単協内の地位を獲得する職員とその行状は東都生協内部で「架空加入問題」と呼ばれています。組合員監査によって表沙汰になり、組織浄化が図られましたが徹底はできませんでした。営業部門のほとんど全幹部・職員が関わっていたので、それらを退職させると、明日から配達業務にあたる職員がいなくなるような事態であったのです。職員の中には自殺未遂に及んだ者もいました。二代目理事長と営業担当役員は退職金を手にして去りました。現在の専務理事は当時の営業担当役員の直属の部下であり、現場でもっとも大多数の架空加入を指揮した人間です。
 農畜産物は規模の大小がどうであれ、工業製品のように生産できるわけではありません。農業生産者であるあなたには当たり前のことです。特に、東都生協が標榜する産直事業では野菜・果物の「欠品」は当たり前。天候不順が続けば、配達の箱の中に「欠品お詫びチラシ」しかないという事態も東都生協では珍しくありませんでした。しかし営業部門にしてみれば、「欠品」は商品部門をあざ笑うよいチャンスでもあります。
 商品担当部門がおそれる「欠品」は、売上額の減少にとどまらず、商品担当部門の組織内地位の低下にもつながります。これは内部の実情を知る者の隠語ですが、一時期東都生協の商品担当部門はリタイアにひっかけて「ヨウロウイン(養老院)」と呼ばれました。「ヨウ」とは「腰痛で営業配達部門からはずれた職員」を意味する「腰」、「ロウ」とは第二労組の「労」で「腰労員」。腰痛もちと第二労組の寄せ集めで、ろくに仕事ができないというわけです。
 野菜・果物の中には、過去にも「欠品」をおそれて「偽装」を施した商品が幾つかあります。
 自らの歴史を「偽装」した東都生協は、架空組合員という「偽装」を許し、「偽装産直商品」をも許しました。「偽装」とは他者を欺くことではなく、自らを欺くことでしょう。茨城玉川農協の豚肉問題は、私から見ると99%は東都生協の責任であり、断罪されるべきは東都生協の「役員・幹部」であると思います。私は「厄員・患部」と呼んでいます。現在の東都生協役職員は、東都生協が何者であるか、自分の姿が分からなくなってしまっていると思います。

●茨城玉川農協の豚肉とは何だろうか

 あなたは当然ご承知のとおり、茨城県は畜産県であり農業県であります。豚肉生産量は全国屈指であり、「茨城」の「茨」から「ローズ豚」と命名しているほどです。
 私は1985年夏に畜産担当として玉川農協とおつきあいするようになりました。最初の仕事はLWB問題の対応でした。Lはランドレース、Wはヨークシャー、Bはバークシャーでそれぞれ豚の種類です。当時東都生協は玉川農協に対して、白豚種(LW)と黒豚種(B)を交配させたハーフの生産を要求していました。ほんらいは味のよい純粋黒豚種(B×B)を目玉商品としてコープ東京(当時の名称は都民生協)に対抗したかったのですが、生産性が低いし肥育技術も難しいので中間種をねらったのです。
 玉川農協も当初は意欲を示しましたが、生産をはじめて難しさに直面します。出産頭数が白豚に比べて格段に少ない、肥育日数が長い、エサの配合も難しい、市場評価も低いので価格も低い、病気にもかかりやすい。生産農家にとって良いことは一つもありません。当然LWBの生産量は少なくなります。それでも東都生協は組合員に対してLWBを目玉商品として宣伝し続けました。玉川農協が東都生協のLWB注文に対して、生産量がおいつかずにLWD(白豚デュロック)を納品したことが表面化したころ、私が畜産担当に指名されたのです。玉川農協に行くと、バークシャーの種豚がわずか一頭しかありませんでした。
 1985年は東都生協にとって一つの転機でした。組合員の注文手段を従来の手書き回覧方式からOCR方式という個人注文に切り替えてコープ東京(都民生協)との競争に、負けまいとしていました。目玉商品が欲しかったのです。夏にははじめて畜産酪農生産者を東京にまねいて交流集会を開きました。形式は名勤生協の交流集会をまねたものですが、内容はOCR方式時代に他生協に負けまいと、畜産酪農産地・生産者にハッパをかけるものでした。私は商品部門の担当としてその年5月にOCR方式導入を果たしたあと、今度は目玉商品の畜産担当となったわけです。
 その年の秋には、黒豚生産県である鹿児島まで行って、玉川農協への黒豚の種豚導入にも立ち会いました。LWB生産を依頼する生協として支援を図ろうとしたわけです。しかし、今にして思うことは「玉川農協の生産者は、本当はLWBなど生産したくはなかったのではないか」ということです。「白豚なら肥育技術に自信がある。白豚だってうまいんだ。」と言った養豚農家の言葉が未だに忘れられません。それ以降玉川農協は精肉製品ラベルにLWBとLWDの別を明記するようになりました。わずか数ヶ月の畜産担当のあと私は商品担当をはずれ、それ以降商品部門に携わることはありませんでした。そのラベルにさえも偽装があったのかどうかは分かりません。
 私が言いたいのは私のアリバイ証明ではありません。私も生産者の欲しないものを要求していたのではないか、という自戒です。注文されたものとは違うものを納品することは確かに偽装ではありますが、生産したくないものを注文しつづけたのは東都生協の傲慢であり、他生協との競争に負けまいとして生産者に無理強いした結果ではないかということです。

●切り捨てられるのは東都生協の方ではなかろうか

 あなたは玉川農協を見捨てないでほしい、と言いました。逆に見捨てられるのは東都生協の方だと、私は思っています。
 例えが適切ではないかも知れませんが、私が東都生協を退職したのは「東都生協は完全に脳死した」と思ったからです。「脳死判定基準」は何かと問われれば枚挙にいとまがありませんが、その脳死判定のあれこれは今日はふれません。
 茨城玉川農協が再生することはできると思います。再生する道は脳死患者である東都生協とのつきあいをやめることです。脳死患者に思考能力はない。あなたは、1993年の大凶作時の東都生協の対応をほめています。確かに国産米をわずかではあっても配達しつづけたことは事実ですが、それは一面でしかない。あのとき、ヤミ米でない国産米は輸入米との抱き合わせ販売が強制されていた以上、東都生協の国産米にも輸入米がおまけでつけられた。東都生協はそのおまけを引き取らずに米卸の倉庫に放置していたに過ぎない。そして最終的には放置した輸入米の代金をはらわずに米卸に負担させたというのがもう一面の事実です。

●東都生協は既に破綻している

 内部事情にくわしいがゆえに厳しい評価になったかも知れません。円満退職したわけではない以上、東都生協に触れるときはおのずとマイナス評価しか口にできない心情を割り引いて読んでもらわなければならないかも知れません。
 「東都生協はいかにして自壊したか」というルポルタージュは、今すぐにでも書くことができます。新しい分析や取材はする必要がありません。最初の一行「1972年に設立され、生産者と消費者が連帯した産直事業を展開してきた東都生協が○○年○月○日ついに解散した。本稿はその産直運動の出発から挫折に至るまでの盛衰を取材したものである。」という書き出しに年月日を記入すれば完成するシナリオのようなものです。売れるものなら書きますが、今の私にはあまり関心がないというのが率直なところです。
 私が退職する直前に、経営危機に陥った大分下郷農協から東都生協に支援依頼が寄せられたそうです。しかし三代目現理事長以下東都生協の役員は一円の支援もしませんでした。下郷農協役員が大分から東京まで頭を下げに来たにもかかわらず手ぶらで帰したということです。設立時70万円を融資してくれた恩義を、現役員は知らないのでしょう。
 下郷農協 奥 登が設立発起人であるという、東都生協以上に下郷農協に大恩ある福岡県の生協はその後「エフコープ」という名称に改称して「労農牛乳」を拒否しました。時代遅れのネーミングだというのです。「労農牛乳」は「耶馬渓牛乳」に改称させられました。生協は恩義という言葉を忘れる以前に、言葉そのものを知らないようです。
 2月26日に別用で大分県に出かけました。元東都生協職員でもあり、元下郷農協職員でもある人物に電話をしたところ、奥 登名誉組合長が郷里を追われたという話しを聞きました。ことの真相はよく分かりませんでしたが、そのことを聞いた夜は切なく苦い夜でした。翌日の取材にも身が入りませんでした。東都生協が今日倒産しても何一つ不思議ではありませんが、下郷農協 奥 登が郷里を追われ、玉川農協が指弾されるのは切ないことです。
 あなたの手紙は、戦後の新しい農民運動を展開した茨城玉川農協への応援歌と読みました。私も同感です。しかし、東都生協に希望はない、と断言します。
 東都生協は15年誌を作ったあと、20年誌も25年誌も書くことができませんでした。今年は30周年ですが、30年誌を書くこともできないでしょう。私のこころのなかにある「自壊のルポ」を除いては。
2002年3月16日 J 

 そして、 → 再返信

 

すずき産地
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茨城県北茨城市
 
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